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綾瀬を知ろう
あやせについて書かれた「郷土資料(きょうどしりょう)」のうち、図書館でよく聞かれることを中心に、小学生のみなさんが知っていることばに書きかえました。もし読めない字や知らないことばがあったら、まわりの大人に聞くか、辞書で調べてみてください。
※漢字は、小学校4年生までに習うものまでを使っています。人や土地の名前など書きかえられないものは、漢字はそのままにして、うしろのカッコに読み方を書いてあります。
あやせの文化財
市ホームページ「あやせの文化財」を元にしています。
蓮光寺内陣彫刻【れんこうじないじんちょうこく】
遠山佐左衛門安則(とおやますけざえもんやすのり)という旗本(はたもと)が、1594年に建てたお寺です。お寺の中の、ふすまなどの上の部分(「らんま」といいます)の彫刻(ちょうこく)が、作られたころのままとってあります。
五社神社・椎の大木【ごしゃじんじゃ・しいのたいぼく】
五社神社は「渋谷庄(しぶやのしょう)」とよばれていた土地の守り神といわれています。その神社にあるシイの木が「ご神木(ごしんぼく)」です。ご神木は、神様そのもの、またはそのくらい大事な木のことです。
大橋氏一族の墓石群【おおはししいちぞくのぼせきぐん】
「蛭川越後(ひるかわえちご)/長龍道安(ちょうりゅうどうあん)」というお坊さんが開いたお寺にあるおはかのこと。1600年ごろから1760年ごろまで深谷村をおさめていた「大橋氏」という一族のおはかです。深谷村は、いま図書館や消防署などがある深谷のあたりの、むかしのよび名です。
遠山氏累代の墓碑群【とおやましるいだいのぼひぐん】
1593年から1596年までの「文禄(ぶんろく)」とよばれていたころに、上土棚村をおさめていた遠山氏の一族の代々のおはかがならんでいます。
小園子之社絵馬・奉納額【こぞのねのしゃえま・ほうのうがく】
江戸時代の終わりのころから明治時代の始まりごろまでにつくられた絵馬や額(がく)が伝わっています。絵馬や額には「石川五右衛門(いしかわごえもん)」や「牛若丸(うしわかまる)」など、歴史上のゆうめいな人たちのことがかいてあるので、そのころの人たちも、五右衛門や牛若丸のことをよく知っていた、ということがわかります。また、弓がうまくなるよう願っておさめられたものもあることから、武士以外の人々も、弓などを覚えようとしていたことがうかがえます。
熊野社本殿・拝殿及び棟札4枚【くまのしゃほんでん・はいでんおよびむなふだよんまい】
上土棚の土地の守り神で「熊野三神(くまのさんじん)」をまつっています。本殿(ほんでん)という中心になる建物は「朱塗り(しゅぬり)」という技が使われています。いまの本殿は、1727年に作り直されたもので、このとき「拝殿(はいでん)」という建物が新しく作られました。「棟札(むなふだ)」というのは、その建物を建てたときのことを残した札のことです。
小園子之社本殿及び棟札9枚【こぞのねのしゃほんでんおよびむなふだきゅうまい】
小園子之社は金子重昌(かねこしげまさ)が、1605年に建てた神社です。本殿(ほんでん)は「宮造り(みやづくり)」という形式の建物です。建物に彫られたかざりなど、細かいところまでていねいに作られています。
五社神社本殿及び棟札9枚【ごしゃじんじゃほんでんおよびむねふだきゅうまい】
五社神社は、「天照大神(あまてらすおおみかみ)」など5柱の神様を祭っている神社です(※神様のことは「柱」と数えます)。鎌倉時代に建てられたもので、このあたりの守り神だったのではないかと思われます。本殿を建てた大工は、鎌倉の円覚寺大工「高階隼人道直(たかしなはやとみちなお)」という人だとわかっています。
熊野社絵馬【くまのしゃえま】
8つの絵馬がおさめられています。江戸時代後期から明治時代前期にかけてのもので、絵馬にかかれている絵から、そのころの人々のくらしぶりや知識がどういったものだったかわかる、たいせつな資料です。「拝殿(はいでん)」にある大絵馬は、建物の外からも見ることができます。
木造地蔵菩薩坐像【もくぞうじぞうぼさつざぞう】
南北朝時代のころか、室町時代のはじめのころに作られたとみられる仏像です。あやせの市内でもっとも古いものだと考えられています。小園地蔵堂(こぞのじぞうどう)にあります。
綾瀬ささらおどり【あやせささらおどり】
江戸時代中期にはじまったとされるおどりです。昭和50年に復活しました。いまは「綾瀬ささら踊り保存会(あやせささらおどりほぞんかい)」が伝えています。
県史跡 早川城跡(城山公園)【けんしせき はやかわじょうあと(しろやまこうえん)】
早川城跡(城山公園)は「土塁(どるい)」「堀切(ほりきり)」「物見塚(ものみづか)」「曲輪(くるわ)」などがいまに残った、中世のお城の跡です。「渋谷一族(しぶやいちぞく)」が作ったお城で、14世紀から15世紀にかけて使われていたものだと考えられています。平成20年2月5日に、県史跡に指定されました。
国指定史跡 神崎遺跡【くにしていしせき かんざきいせき】
吉岡にあり、平成23年2月7日に、国指定史跡になりました。いまから約1800年前にあった村のあとで、外側をぐるりと深いみぞで囲まれています。そういう村のことを「環濠集落(かんごうしゅうらく)」といいます。弥生時代(やよいじだい)特有のものです。南北に103メートル、東西に65メートルのだ円形をしていることがわかっています。まだ調査されていない部分もありますが、村の全体が残っているのは、めずらしいことです。
神崎遺跡出土品【かんざきいせき しゅつどひん】
神崎遺跡(かんざきいせき)から見つかった土器や石器、鉄器などのこと。平成14年2月12日に、県重要文化財(けんじゅうようぶんかざい)に指定されました。見つかった土器などの一部は、市役所内にかざられています。
びわみ堂遺跡出土の板碑【びわみどういせきしゅつどのいたび】
「びわみ堂」は、落合から、深谷の大法寺(だいほうじ)にうつされた「淡島明神堂(あわしまみょうじんどう)」の別の名前です。その遺跡から、約700年前の石でできた「板碑(いたび)」が28点見つかりました。板碑というのは、いまのおはかの後ろに立っている木の札(「卒塔婆(そとば)」といいます)に当たるもので、なくなった人のためにつくられました。そのころの人たちが、神様のことやいのちのことなどをどんな風に思っていたのかを考えるだいじなものです。
笠間家のギンモクセイ【かさまけのぎんもくせい】
その木が生えてから何年たっているかを「樹齢(じゅれい)」といいます。笠間家のギンモクセイは、樹齢130年くらいだろうと考えられていて、県の「名木100選」に選ばれたこともあります。花がさくころになると、あやせ以外のところからも見に来る人たちがいます。
上土棚南遺跡出土の土偶等祭祀・装飾関連遺物【かみつちだなみなみいせきしゅつどのどぐうとうさいし・そうしょくかんれんいぶつ】
縄文時代(じょうもんじだい)の後期に「儀礼(ぎれい)」の道具として使われていたのではないかと考えられています。儀礼というのは、神様などにおねがいごとをする式典やお祭りのことです。そのころ、天気がわるくなり寒くなったことで、ぶじにくらしていけるか不安な気持ちになる人たちがふえたので、神様のための行事を熱心にするようになったようです。
早川城山遺跡出土の奈良三彩【はやかわしろやまいせきしゅつどのならさんさい】
早川城山遺跡から見つかりました。緑・黄色・白の3色でかざられた器です。同じようなものは、県内では10例しか見つかっていません。いまから約1500年前に、日本でつくられました。そのころの中央政府(ちゅうおうせいふ)と関わりのあった人の持ちものだったと考えられています。